アイドルではない推しと、アイドル(と呼んでいいのか)の推しを推すこと。あるいは、7ORDERさんを好きになったおたくの話。

「アイドルを推すこととアイドルと言っても過言ではない美しさだが足場がアイドルではないひとを推すことの差異が、近日自分の中でぐるぐるしている。心の預け方や置きどころが違うというか、何か、こう(ろくろを回す手) これ掘り下げると自分の陰キャ感にたどり着いてしまいそうで、ちょっとこわい」


と先日つぶやいた。


 そんなことを言い出したのは、先週7ORDERさんという方たちを教えていただいたところ、転がるようにはまり、いままでにない感情の発生に動揺したためである。

 従前からの推しを推すときと、心の動き方が何か違う。スカラーじゃなくてベクトルが違うし、何なら基準地点も違う。おたくは戸惑った。戸惑って、何とか心を整理しようと試みた。


 そういうわけで、こわいのは相変わらずこわいのだけれど、7ORDERさんにはまって1週間記念の夜更けに少し考えたことを、ここに残しておく。


 推しと推しとの間を話が行ったり来たりしますが、もしお付き合いいただけたなら幸いです。


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 わたしの従前からの推しは、声優であり脚本家であり舞台俳優でもある、浅沼晋太郎さんである。いまだと、ヒプステであべあらんさんが演じる、碧棺左馬刻の中の方として知られているかもしれない。


 浅沼さんは、お顔がよい、人柄もよい、そして何より頭がよい。

 どういう段階を経て書かれたのか全く分からない、伏線だらけの脚本。自分で書いて、自分で演出して、自分で演じる。残される映像の画角を調整しているのも彼である。

 舞台に立てば、指先ひとつのかすかな動きまで余すところなく意味を持たせていて、呼吸ひとつまでその役柄を離れることがない。

 そして、言うまでもなくあの声。目を閉じて聴けば、浅沼さんだとはもう分からない。役そのものの誰かがいつもそこにいて、わたしはしばしば彼と役との境目を見失った。


 天才だと思った。思っていた。

 努力してるんですよ、とラジオで言えるようになった浅沼さんの言葉で初めて、見せてくれていた彼の姿の裏にあったものを知った。


 わたしは、浅沼さんについては、ずっと実在を信じられなくて、結構生活圏が重なっていることが分かってしまうTwitterの写真も食べ物飲み物の好みなどの人間らしい発言も視聴きしながら、それでもどこかで、このひとは集団幻想か何かなんじゃないか、写真と動画の上でしか存在しないんじゃないか、と思っていた。

 博多の王様ジャングルのお渡し会で、目の前できゅうっと目元に笑いじわが寄るのを見て、生の声をかけてくれるのを聴くまでは。


 それまではずっと、Twitterの写真を見ては、このサウナ、わたしの帰り路にあるやつだな、とかこのカフェ、勤務先の徒歩圏内のだな、だの認識はしながら、何だか不思議な気分でいた。

 自分の、日常の延長線上の非実在というか。お揃い、にできるものが手近にあることを心から喜びながら(なお、HUBLOTの時計は手近ではない)、どこかでその存在を信じきれていなかった。

 bpmFESTAも創’s barも行って、遠いながらも存在を目にして、歌う声も聴いていたのにね


 一方7ORDERさんは、最初から全く実在を疑っていなくて、ただただ階層や世界の違う方々だ、と仰ぎ見ている感がある。

 これは、ヒプステ現地初日、あべあらんさんの生の声に演技にダンスに心臓を力いっぱい殴られたのが、そもそもの出会いだったからかもしれない。


 あの日あのとき、わたしはヒプステを観終わってからしばらく呆然として、気づいたらまたヒプステのチケットを取っていて、また行ってまた呆然とした。

 ヒプステの感想は言いたいことが山ほどあるので割愛するけれど、とりあえず、ひとときも目が離せなかった。ここに左馬刻様がいる。左馬刻様以外の記憶は、酔っ払いのようにとぎれとぎれになった(ので配信で見直した)。

 両目をセルフ左馬刻様カメラにして、彼をずっと見ていたら、最後の最後、挨拶が終わるときに、かすかに笑ったのが分かった。あ、これは左馬刻様じゃない、きっと中のひとの笑顔だ、ととっさに感じた。

 その笑顔がほんとうにきらきらしていて、優しげで格好良くて、言葉をどんなに尽くしても足りない気しかしなくて、そこでそれまでの記憶もほぼ全て飛んだ。

 ヒプノシスマイクが好きで行って、あべあらんさんという方を大好きになって帰ってきた。


 自分の心臓が、動き出した気がした。


 ここで終わってはいけないという強い衝動に駆られて、もっとあらんさんのパフォーマンスを観たい、他の舞台には出られているのか?と焦れて、ファンクラブはある?とおぼつかない手でつぶやいたとき、とても有難いことに、優しい方が7ORDERさんの存在と公式動画を教えて下さった。

 それが全ての始まりだった。


 YouTubeの惑星ループ踊ってみた、を最初に観たのを覚えている。まだメンバーの皆さんの見分けはつかなかったけれど、あべあらんさんの笑い顔が左馬刻様のときからは思いもよらないほどに可愛いことと、サビのとぅっとぅるるっのとき、人差し指だけ立てて振る際の手首から先のしなりがあまりに自然で、何てしなやかに踊るんだろうか、という感慨でいっぱいになった。


 その後、他のダンス動画を観て、バラエティ風の動画も観て、他のメンバー、だったひとたちが、ながつまさん、になり、やすいさん、になり、メンバーカラーもお顔も名前もいつのまにか一致するようになった。

 各動画についても言いたいことが沢山あり、何なら、この秒数のこのお顔が天才!だの、このかけ合いが最高!だの端から挙げていきたいのだけれど、全くきりがないのでこれも割愛する。何せ、あらんさんたちのことは、ほんとうに永遠に話せてしまう。


 ムラビートと「友達だよ」はエンドレスリピートだし、Make it trueのやすいさんドッキリでは、ラストの通しで”Yeah, I can make it true for you”かみてに走ってからの激しい振りがものすごく好きで、そこばかり繰り返し何十回も観ている。

 大運動会で罰ゲームの液体を黙って自分だけペットボトルで飲むなんていう、信じられないほどの優しさと漢気には愛すること以外できなかったし、サウナ部の腰の細さには見てはいけないものを見てしまった気しかしなくて、わたしは動物園のくまのように狭い部屋の中で立ったり座ったりしてめちゃくちゃ深い溜め息を吐いた。


 あ、全然割愛できていないな


 ちなみに、歌っているときのお声はまだ、もりたさんとながつまさんとやすいさんしか聴き分けられていない。遺憾である。

 あらんさんについては、このフレーズのこのお声いいな!と思うとあらんさんなので、聴き分けられているような、いないような心持ちでいる。

 しかしその過程でYouTube動画を何周もしていると、1回目に観たときに認識できていなかったものができるようになり、上がった解像度でさらに楽しめることが分かった。復習は大事なんだと、受験勉強から離れて幾光年経ったいまになって、初めて実感した。


 ここまで、彼らを知ってから1週間の話である。

 1週間って何日だっけ?と宇宙猫になることしきり。

 なお、いま手元にはUNORDERGIRLS CONTINUEに写真集があり、スマホの中には、どういう順番で振られたのか分からないFC会員番号があって、ロック画面には舌を出したあらんさんがいる。お顔がよい。とんでもなくよい。


 あべあらんさんは、見たこともないほど美しく、およそ周りにはいない運動神経で、映っている姿は何の気なしだろう無造作な一動作まで洗練されていて、纏うものは端から端まで洒落て、少なくともわたしは滅多に身につけないハイブランドに包まれている。概念じゃなく、実在するステータスMAXのひと、なんだと思って眩しく見上げている。

 近づく機会もないけれど、近づいたらきっと灼かれる。比喩ではなく、そう思っている。


 FC動画の、イルミネーションどこが好きとかある?との問いかけに、あらんさんが即座に「ありますよそりゃ、言わないですけど」と返したとき、明確に引かれている線に一瞬肩が強ばってから、いやそれはそうだ、だってこの方たちは実在しているんだもの、ちゃんとご自分を守れるひとでほんとうに良かったとひどく安心した。

 絶対に何も届かないことに、安心した。

 きっと声も届かない、と思うと、やっぱりどうしようもなくほっとした。

 それがいいことかどうかは分からない。応援の声、好きだよという言葉は届いてほしいようにも思う。でもやっぱり、届くのは怖い気もする。


 だけれど、それを措いても、きっとあらんさんは、届いたものに揺らがないひとだとも思っている。

 とても強い芯が、自分、があって、それを守り通せるひとなんだと思う。佇まいからも、表情からも、座右の銘からだって分かる。

 それは、7ORDERのどのメンバーさんにも感じることであって、特にあらんさんとやすいさんに感じるものでもある。

 そういう彼らの姿を見るたび、いっそう安心して、ああためらいなく推せる、推す、と心から誓った。


 これを書いていて初めて気づいたけれど、わたしは浅沼さんやbpmの皆さんに、声やその他の何かが届きうることを、おそらく怖いと感じていた。

 届くというのは勘違いかもしれない。

 遠いとおいひとたちであることは間違いなくて、道が交わることはほぼあり得なくて、個として認識されることはきっとなく、そことこことの間にはきちんと線が引かれている。

 それでも、やっぱり怖かった。

 期せずして生活圏で見かけたら、こちらの意図しないつぶやきが目に入ったら、どうしよう。


 特につぶやきについては、わたしがいまも気にしていることがひとつある。

 映画部のYouTube動画での発言を、浅沼さんがラジオで謝ったこと。

 あのときを思い出すと、心臓の下の方が冷たくなる。動画の発言がいやだった、というわたしのつぶやきを見たわけじゃない、たまたまだ、と思いながらも、万が一あれを見たのだったら、と頭を抱えるのは止められなかった。


 そのことに限らず、何かしらの重なりや関わりがあることが嬉しいようで、恐ろしいようで、いつもよく分からない気持ちになった。

 最終的には、浅沼さんやbpmさんは、自制しながらほどよく推す、という、至極当たり前の結論にたどりついた。


 一方、7ORDERさんである。

 プライベートな情報が全く分からない。これはわたしが新規も新規だからなのかもしれないが、行かれる場所や使われるお店が全く分からない。分かるのは、イルキャンティのドレッシングをお好きだということくらいである。

 世界が違いすぎて、何も特定できない。

 

 もう、何だかこの時点でほっとした。

 動画を観れば携帯電話の画面にはモザイク処理がされているし、トークの中でも先述のようにあらんさんたちの方から、ばつっと線を引いて下さる。

 何も考えないで推せる。正直そう思った。

 そう思ってから、ああこれがアイドル(と呼んでいいのか)を推すということか、と結構な衝撃を受けたし、いまも受け続けている。

 これがおたくの知らなかった情動であり、わたしがこんなにも長い思考の整理を始めた原点だった。


 なお、これは従前からの推したちは手が届くところにいるとか、情報管理がゆるいとか、そういう趣旨ではない。あのひとたちが、手の届くところにいるわけがない。いらしたらどんなによかったことか。いやよくない、心臓がもたないな。

 上げている写真も、リアルタイムでないだろうことはよく分かっている。リアルタイムであっても、もちろんそこには行かないけれど。

 分かった上で、推す側のわたしの気持ちの置きどころの問題である。の、が多いな。


 なお、7ORDERさんに対しても、従前からの推したち同様、何かをお揃いにできたらいいな、とか撮影に使われたお店に行ってみたい、という気持ちがないわけではない。

 いややっぱり、あまりないのかもしれない。まだちょっと自分でもよく分からない。

 ただ、7ORDERさんを推している、ということを示すものはほしいな、と思う。公式のパーカーだったり、Tシャツだったり、メンバーカラーの何かだったり。ネイルは先週末からペールパープルにした。


 でも、彼ら自身の持ち物と同じブランドのものや好きなものを手に取ってみたい、とはあまり考えていない。

 これもおそらく、実在している、という認識が先にあったからなのだろうと思う。

 非実在だからこそ、その存在を身近に感じられるよう何かを重ねて真似てみたいと思い、実在だからこそ、その存在を目の当たりにしただけで満たされる。多分、わたしの中の切り分けはそういう風になされた。


 とは言いながら、何ヶ月かのち、あらんさんの香水を特定して購入しようとしたりしていたら、これを読み返して自分で指さして笑ってやろうと思う。

 あらんさん、めちゃくちゃいい匂いしそうだな。あらんさんの香水、やっぱりほしいかもしれない。


 以上、思う、思う、ばかりで何も断定できていないのは、わたしがアイドル(と呼んでいいのか)を推すのが全くもって初めてだからである。

 いわゆる芸能人、にほとんど興味をもたずに生きてきてしまったので、文化も作法も分からなければ、何より自分の感情も心の預け方も分からない。

 好き、の海で溺れそうなところを、力を抜いて浮かねばと四苦八苦するばかりである。こんなにも誰かを好きになって大丈夫なのか。RADWIMPSが「いいんですよ」って言っていた気もするが、どなたかこの海の泳ぎ方を教えてほしい。


 とりあえず、そうこう行ったり来たりして、アイドル(以下省略)を推すこと、とアイドルと言っても過言ではない美しさだが足場がアイドルではないひとを推すこと、の差異について、わたしの中ではひとまず落ち着きを得た。

 まあ、差異については落ち着きを得たけれど、好きな気持ちは相変わらず落ち着かない。


 起きてはPCYouTubeUNORDERを観て息を呑み、GIRLS CONTINUEを眺めてはうめく。寝てはスマホYouTubeを観て、写真フォルダを見て、またYouTubeを観る。ここが好き、あそこも好き、と言いたい気持ちが暴れ出すのをこらえるので一日が終わる。こらえられないと、こういう文章を書き始める。

 推しがいる人生は、ほんとうに幸せだな、と心から思った。


 かくして(?)わたしは、自制しながら推すべき、日常の(遠いとおい)延長線上にいる非実在のようでいて実在の推しと、ためらいなくノータイムで推せる、違う階層にいる明らかに実在の推し、をもつにいたった。

 推す際の感情の委ね方も、アクセルの踏み方も、まるで違うふたりの推し。

 同じところは、わたしの人生を照らして、心を温かくして、沢山笑顔にさせてくれるところだな、と推しふたりのツーショット写真を見ながら、思っている。あらんさんのインスタから発掘した貴重な写真。非実在(実在)と実在の架橋。


 なお、わたしを推したちに出会わせてくれたのは左馬刻様なので、ヨコハマには足を向けて寝られない、と思ってさっきGoogleマップで調べたら、ちょうど枕の方角だったので良かった。二礼二拍手一礼をしておく。


 大人になっても、新しい感情や好きに出会えるんだと、毎日推したちに教えてもらっている。

 推したちは、自分がわたしという個の人生を照らして、心を温かくして、沢山笑顔にしているのだと、知ることはないだろう。

 こんなにも幸せをもらっているわたしを、知ることはないだろう。

 でも、それでいいと思っている。

 それが、推しを推すこと、なんだと思う。推しがアイドル(以下略)であっても、そうでなくても。


 知らなかった心を生み出し、わたしの心臓を動かしてくれた推したちが、幸せでありますように。

 そして、これを読んで下さったあなたとあなたの推しも、幸せでありますように。

 いまはただ、そう願ってやまない。