推しの出演作品に関する記憶を客観的に残しておきたいという欲求、あるいは「October Sky-遠い空の向こうに-」を観たおたくのレポート。

 ホテルのカードキーは忘れても、推したるあべあらんさんに関する事象は、細大もらさず覚えておきたい、と思っている。
 何の作品に出演されたか、いつどこで何を話されたかは勿論、その笑い顔もどこかとろっとしたお声も、直近で言えば、ミュージカルのカーテンコールで袖にはける際、口の形だけで「有難う」と伝えて下さったときの、きらめきに満ちた瞳も。
 おたくは、それを遮るもののない目の前で見た。見たがために、どうにかそこで時が止まらないかと願いかけたものの、冬には7ORDERさんとのDateが待っているので、願いは何とか棚上げにした。

 記憶が薄れない内にと、主観に満ちた文章を日々SNSにほろほろこぼすのは楽しい。
 あらんさんに関する他の方の文章を読んで、新たな視点を得るのも楽しい。
 特に、ご出演作について、あらんさん以外の方にも言及があり、演出やあらすじについても細かに触れられている文章を読むと、自分の記憶が補完されるのを感じる。

 わたしの両目はセルフあらんさんカメラなので、何度目の観劇でもアーカイブでも、あらんさんが舞台上にいる限り、必ずあらんさんを目で追ってしまう。これは、最初に出会った衝撃のヒプステから変わらない。もう、そういう風にできている。
 そうすると、話の流れや他の方の良きところが、記憶からそっとこぼれ落ちかねないので、他の方の詳細で客観的な文章で、作品全体に関する記憶をぎゅっと補完する。

 アーカイブが残らず、映像化の予定がない作品は、特に文章によって記憶を補完したい。
 「October Sky-遠い空の向こうに-」もそのひとつである。
 義父に暴力を振るわれた後、ひとりで何かを堪えるように立ちながら、涙をこぼさずに泣くあらんさんや、酔っ払っていてもターンのキレがとんでもなく良かったり、割れている(のは見えないけれども)腹筋で跳ね起きたりするあらんさんがいらした、あの作品。
 観劇のたび、あらんさんについてはこれでもかとつぶやいていて、あらんさんに関する記憶は今後も喚起できそうだけれど、あのあらんさんの演技を含めた、作品全体についての記憶をしかと残しておきたい。
 その欲求が、わたしにレポートを書かせました。英作文にありそうな一文。
 記憶を残すために、詳細で客観的な、それでいてあらんさんにもフォーカスしている文章を読みたいなら、自分で書けばいいじゃない。
 その結果が、以下の文章である。

 なお、どこかの記事のような体裁で書いていますが、これはわたしの脳内の記事です。もしご覧いただく際は、その点ご留意いただけますと幸いです。

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【舞台レポート】甲斐翔真、阿部顕嵐らによるミュージカル「October Sky 遠い空の向こうに」全公演、堂々閉幕。

 元NASAの技術者であるホーマー・H・ヒッカムJr.の自伝「Rocket Boys」を元に製作された映画「遠い空の向こうに」(1999年公開)が、この度ミュージカルとなり、日本初演を果たした。
 ときは1957年、冷戦只中のアメリカ合衆国ウェストヴァージニア州にある閉鎖的な炭鉱の町コールウッド。この町に生きる高校生のホーマー・ヒッカムが、ロケット打ち上げを夢見て、友人たちとともに技術の習得や環境の克服に挑む姿を描いた伝記的本作。

 いまミュージカルでの活躍目覚ましい甲斐翔真を主演に、甲斐演じるホーマー・ヒッカムの友人に阿部顕嵐、井澤巧麻、福崎那由他の注目若手俳優を迎え、ホーマーの両親として朴璐美、栗原秀雄が脇を固める本作品は、10月24日にシアターコクーンにて東京公演の千穐楽、11月14日に森ノ宮ピロティホールでの大千穐楽を迎えた。

 以下、東京公演の千穐楽の様子を詳細にレポートする。
 
 本舞台は、コールウッド炭鉱で働く鉱夫たちの低い歌声で幕を開ける。自らの生命と家族の生活をかけ、誇りを持って働く彼らの強い眼差しからは、当時のコールウッドに生きる人々の様相がまざまざと伝わってくる。
 栗原演じる炭鉱の現場監督ジョン・ヒッカムは、ホーマーの父親だが、昼食を届けにきた息子を一顧だにせず、炭鉱の安全確保に専心する。
 ランチ忘れてるよ、と明るい声で父親に話しかけたホーマーは、後にしろと両断され顔を曇らせる。
 父親に認められたいという願いとそれが叶わない苦しさを、甲斐の表情が丁寧に映し出し、ホーマーとジョンとの関係が本作品の主題のひとつであることを観客に伝えた。
 頭を低くするんだ、と宣うジョンとそれに従う炭鉱夫は、後々空を見上げ、夢を追い続けていくホーマーと対照的な姿を見せながら、炭鉱の地下深くに潜り、場面が切り替わる。

 ホーマーの友人たるロイ・リーとオデルもまた、石炭の町コールウッドに生きる少年だ。
 自らの将来について、地下には潜らないと思う、と話すホーマーに対して、「ひとはいずれ死んで土の中」なのだから賃金をもらって地下に潜ろう、と語りかけるロイ・リーの表情は決して暗いものではない。
 また、井澤演じるお調子者のオデルの言葉から、阿部の秀麗な顔に散る痛々しい青あざが、ロイ・リーの義父であるアールによるものと明らかになるが、ホーマーもオデルもそれ以上友人の家族関係に踏み込もうとはしない。
 「車もある けど抜け出せない」「卒業まで2年もあるぞ」とコミカルに歌い上げる彼らは、どこかあっけらかんとしていて、コールウッドに生まれて死ぬことも炭鉱夫以外の道を選べないことも、ホーマーを除くこの町の人々にとっては当たり前なのだと気づかされる。

 夢咲ねね演じる教師ミス・ライリーは、世界初の人工衛星スプートニクの打上げ成功という大ニュースを生徒たちと分かち合おうとするが、いじめられっ子のクエンティンと夢見るように虚空を見上げるホーマー以外の生徒は、これに興味を示さない。
 それでも、実際にスプートニクがコールウッド上空を通過する時間には、炭鉱に向かうジョンを除く町中の人々がこぞって夜空を見上げ、未知の光に目をこらす。

 このシーンについて「全員でひとつのものを見て、ステージ上のみんなの時が止まってるような感じがして、見に来て下さるひととも時間が止まるのを共有したい」と事前の記者会見で述べたのは、ロイ・リーを演じる阿部だ。
 その言葉のとおり、「星見上げれば」と甲斐が朗々と歌い上げると、シアター全体がまるでコールウッドの人々と同じ時にいるかのように静止し、気づけば観客の誰もが、彼らと同じ遠い夜空を見つめていた。

 町の人々が誰もいなくなってからも、ホーマーは宙の下に立ち続ける。
 そのせいで翌朝遅く起床したところ、ジョンはこれを見咎め、母親のエルシーのとりなしも余所に、ホーマーの兄のジムとともにスプートニクを馬鹿にする。
 ジョンとジムがスプートニクを笑うたび、生演奏のコントラバスの低い音色がカットインし、ホーマーの我慢が限界に近づいているのだと観客に悟らせる演出が面白い。
 なおも笑う彼らに対し、「ロケットつくる!」とホーマーが決意の声を上げ、本作品のメインとなるロケットづくりが始まる。
 甲斐が息を吸うタイミングに合わせてコントラバスの音が響きわたるこの場面は、オーケストラと甲斐の息の合わせどころという点でも必見だ。

 スプートニクみたいにやるつもりだ、と父親に向かって正面から夢を語り、ダイニングを出たホーマーは、その後独学でロケットをつくり上げるが、家のフェンスを吹き飛ばしたり真っ直ぐ飛ばず炭鉱に突っ込んだりと、ロケットづくりは難航する。
 それでも、ホーマー、ロイ・リー、オデルにクエンティンのロケット・ボーイズは、周囲の助けを得ながら少しずつ前進していく。

 ロケット・ボーイズが舞台に現れる場面は、彼らのくだけた冗談や少年らしいぶつかり合いに彩られ、作品に通底する重苦しい雰囲気が大きく和らぐ。
 特に、彼らがロケットの燃料として酒場にアルコールを求めに行くシーンは、オーケストラの生演奏に、密造酒のビンを叩く音、客席の力いっぱいの手拍子が相まって、まるでコンサート会場のような盛り上がりを見せた。
 密造酒を飲んだ大人たちの歌と演奏に合わせ、悪酔いしながらもはしゃぐように踊る彼らの姿は、彼らを取り巻く現実の困難さをひととき忘れさせる。
 取り分け、阿部のジャンプやターンのキレには目を見張るものがあり、その力強いダンスも本作品の見どころのひとつだろう。

 もっとも、ホーマーとともに歩んできたロケット・ボーイズの友人たちの人生も、必ずしも順風満帆ではない。
 ホーマーほど親子の関係が明確に描かれてはいないが、ロイ・リーは義父のアールから日常的に激しい暴力を振るわれている。
 ロケットの燃料を守備良く入手した酒場帰りにも、道端でアールに見つかったロイ・リーは一方的な暴力を受け、通りがかったジョンに助けられた後、ただ何かを堪えるように前を見つめ、涙をこぼさずに泣く。
 台詞がないにもかかわらず、瞳と表情だけでロイ・リーの抑圧と諦念を表した阿部の演技が秀逸だ。
 どうしようもない理不尽にぶつかっても、彼らはロケットを飛ばし続ける。そうすることで、掴み取れるものがあると信じて。

 試行錯誤を繰り返すロケットづくりと並行して、ジョンとホーマーの衝突、そしてコールウッド炭鉱に漂う終焉の気配が色濃くにじみ出す。
 一幕は、ジムの代わりに家業を背負う未来が近づく最中にありながら「必ず輝くさ」と力強く明るい声で歌うホーマーを、炭鉱夫たちが囲むように立って歌い上げるシーンで幕を降ろす。
 周囲の炭鉱夫を見回して、不安そうな背を見せる甲斐の姿に、観客が展開の不穏さを感じたまま、二幕が上がる。

 抑圧的な父親と、それに抗いながらも子どもたちを導こうとする母親。勉強よりも運動に精を出し父親に目をかけられる兄と、彼らとは異なる未来を夢見るがゆえに、心をかけてもらえない弟。
 現代日本とは必ずしも重ならない舞台設定に対し、観客は少なからずもどかしさをおぼえるだろう。
 しかしそれは、ホーマーを見つめ、背中を押す女性陣の存在によって昇華される。
 エルシーの慈愛、ミス・ライリーの友愛、そしてドロシーの親愛。
 三者の心の内は、二幕の開演間もなく吐露されることとなる。

 ホーマーの母親であるエルシーは、息子のロケットが大切なフェンスを壊した際にも、もう止めなさいとは決して言わない。
 エルシーを演じる朴が「夢見るなら 地に足つけて」と力強い歌声を響かせ、頬をこづいたり頭を軽く叩いたりと、公演ごとにアドリブを交えながらホーマーを励ませば、客席からは安堵したような笑い声がこぼれた。
 東京公演初日から同千穐楽までの間、朴の演技は少しずつ変化を見せた。
 初日は、どちらかといえばジョンの顔色を伺っているようにも感じられたが、ホーマーの失敗をとりなす際や、息子を見捨てるならば貴方も同じ目に合うのだと離縁を突きつける際の声音は、公演を重ねるごとに決然とし、息子のために決して揺らがないエルシーの芯を、いっそう強く観客に感じさせた。

 ミス・ライリーは、詩人になる夢を諦め、ロケット・ボーイズのクラブ活動をターナー校長に認めさせ、教師として彼らを全米科学コンテストでの優勝へ導く途中、病に倒れる。
 しかし彼女は、家業を背負うこととなって揺らぐホーマーを叱咤し、夢を追い続けることの神聖さと「人生は導火線に火を点け続けるしかないってこと」を教え、舞台からその姿が見えなくなっても、ホーマーを支え続ける。

 中村麗乃演じるドロシーは、炭鉱夫の娘であり、素朴にコールウッドの町を愛する少女だ。
 一幕では、揺れが制御できていないロケットを美しいと褒め、この町でともに生きることをホーマーに呼びかけたが、ホーマーが炭鉱に潜り、ロケット・ボーイズから抜けた二幕になって、それが転じることとなる。
 ドロシーとホーマーが久しぶりに二人で話すシーン、ドロシーは一幕と同じメロディラインで故郷を愛する歌を奏でながらも、ホーマーに仲間たちを追うよう促す。
 促す際の中村の語調は、公演を重ねるごとに強くなり、ドロシーが思考を重ね、ホーマーと自分との在り方に対する答えを徐々に見つけ出していったのだと感じさせた。
 決意を湛えた横顔を見せた中村が、凛と背筋を伸ばしながら、ホーマーを置いてひとりで舞台上から去るシーンは、ホーマーの成長と同時にドロシーの変化も感じさせる美しい一場面だ。

 舞台の終盤、ホーマーとジョンは、お互いの進む道、歩んできた道について、真正面から言葉を交わすこととなる。
 全米科学コンテストのためにストライキ中の工場を使いたいと申し出るホーマーと、自分と向き合わないジョンに対するホーマーの台詞は、公演ごとにその色を少しずつ変えていることがよく分かった。
 東京公演千穐楽での甲斐は、どの公演よりも力強く「僕が話してるんだ!」「どうしたらパパに気にかけてもらえるの」と悲憤に満ちた声で叫び、その瞬間、観客は自然と息を詰めた。
 一幕の開幕時点から示されていた、父親に気にかけてもらいたいがそれが叶わないホーマーの苦しさが、ここにきて頂点に達する。
 子どもと大人、息子と父親という、抗い難い構図がまたしても観客に示される。

 それが、エルシーがジョンに離縁を突きつけた後の対話では一転する。
 ホーマーは、もはやただ愛情を求める子どもではなく、その苦しみを乗り越え、対等な立場で父親を説得しようとする大人になろうとしていることが如実に表される。
 ホーマーは、顔を背けて何度も立ち去ろうとするジョンに対して、自分から近づきながら「いままで有難う、誇りに思ってくれたこと」「貴方の愛、胸に抱いていくんだ」と語りかける。
 空にも届くような甲斐の歌声は、ジョンだけでなく観客の心をも大きく揺り動かす。
 ここにきて初めてホーマーは、父親の考え方や立場を理解していること、その上で父親とは違う道を生きたいのだと、ジョンに伝えることができたのだ。

 ジョンの助力もあって全米科学コンテストに優勝したロケット・ボーイズは、コールウッドに戻ってロケットを打ち上げようとする。
 それを心待ちにする町の人々は、ただ真っ直ぐに、彼らが無事ロケットを打ち上げることを望んでいる。
 「彼ら決して諦めない 10月の空を目指す」「ロケット・ボーイズよ飛べ」と願いを込めて見守っていた町の人々は、叶えられなかった自分たちの夢の代わりではなく、ロケット・ボーイズの見た新しい夢を、彼らとともに見ている。
 スプートニクを馬鹿にし、ホーマーを笑っていたジムも、ロイ・リーに暴力を振るいロケットを隠したアールも、火遊びは許さないと顔をしかめていたターナー校長もみな、遠い空の向こうの星に焦がれるように、打ち上がるロケットを見つめていた。

 “A man's reach should exceed his grasp, or what's a heaven for?”
 「ひとは手の届く範囲の外にあるものを掴み取りに行くべきである。さもなくば、何のための天国か」
 ミス・ライリーが生徒たちに教えた、詩人ロバート・ブラウニングの言葉だ。

 その言葉のとおり、ホーマーとロケット・ボーイズは努力を続け、周囲の心をも変え、不可能とも思われた夢を掴み取る。
 彼らの姿は、環境に抗いながら夢を目指す若者はもちろん、手の届く範囲の外に手を伸ばすことを恐れるようになってしまった大人の背も、そっと押してくれる。

 「October Sky-遠い空の向こうに-」は、東京公演に続き、大阪公演及び同公演大千穐楽のリピート配信を無事に終えた。
 ロケット・ボーイズの打ち上げる物語は、本日をもってその幕を閉じたが、彼らの描いた大きな軌跡は、観た人々の心に残り続けることだろう。

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 満足しました。
 忘れたくないものを全て覚えておくことはできなくとも、あの日観て聴いたものを、いつかは忘れてしまうのだとしても、忘れたくないと願って何かを書き残そうとする熱が、いま自分の胸にあることを、幸せに思う。
 そして何より、それをもたらしてくれたあらんさんに出会えたことが、わたしの僥倖である。その幸せを、これから先も積み重ねていきたいと願いながら、この記事も幕を閉じる。

アイドルではない推しと、アイドル(と呼んでいいのか)の推しを推すこと。あるいは、7ORDERさんを好きになったおたくの話。

「アイドルを推すこととアイドルと言っても過言ではない美しさだが足場がアイドルではないひとを推すことの差異が、近日自分の中でぐるぐるしている。心の預け方や置きどころが違うというか、何か、こう(ろくろを回す手) これ掘り下げると自分の陰キャ感にたどり着いてしまいそうで、ちょっとこわい」


と先日つぶやいた。


 そんなことを言い出したのは、先週7ORDERさんという方たちを教えていただいたところ、転がるようにはまり、いままでにない感情の発生に動揺したためである。

 従前からの推しを推すときと、心の動き方が何か違う。スカラーじゃなくてベクトルが違うし、何なら基準地点も違う。おたくは戸惑った。戸惑って、何とか心を整理しようと試みた。


 そういうわけで、こわいのは相変わらずこわいのだけれど、7ORDERさんにはまって1週間記念の夜更けに少し考えたことを、ここに残しておく。


 推しと推しとの間を話が行ったり来たりしますが、もしお付き合いいただけたなら幸いです。


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 わたしの従前からの推しは、声優であり脚本家であり舞台俳優でもある、浅沼晋太郎さんである。いまだと、ヒプステであべあらんさんが演じる、碧棺左馬刻の中の方として知られているかもしれない。


 浅沼さんは、お顔がよい、人柄もよい、そして何より頭がよい。

 どういう段階を経て書かれたのか全く分からない、伏線だらけの脚本。自分で書いて、自分で演出して、自分で演じる。残される映像の画角を調整しているのも彼である。

 舞台に立てば、指先ひとつのかすかな動きまで余すところなく意味を持たせていて、呼吸ひとつまでその役柄を離れることがない。

 そして、言うまでもなくあの声。目を閉じて聴けば、浅沼さんだとはもう分からない。役そのものの誰かがいつもそこにいて、わたしはしばしば彼と役との境目を見失った。


 天才だと思った。思っていた。

 努力してるんですよ、とラジオで言えるようになった浅沼さんの言葉で初めて、見せてくれていた彼の姿の裏にあったものを知った。


 わたしは、浅沼さんについては、ずっと実在を信じられなくて、結構生活圏が重なっていることが分かってしまうTwitterの写真も食べ物飲み物の好みなどの人間らしい発言も視聴きしながら、それでもどこかで、このひとは集団幻想か何かなんじゃないか、写真と動画の上でしか存在しないんじゃないか、と思っていた。

 博多の王様ジャングルのお渡し会で、目の前できゅうっと目元に笑いじわが寄るのを見て、生の声をかけてくれるのを聴くまでは。


 それまではずっと、Twitterの写真を見ては、このサウナ、わたしの帰り路にあるやつだな、とかこのカフェ、勤務先の徒歩圏内のだな、だの認識はしながら、何だか不思議な気分でいた。

 自分の、日常の延長線上の非実在というか。お揃い、にできるものが手近にあることを心から喜びながら(なお、HUBLOTの時計は手近ではない)、どこかでその存在を信じきれていなかった。

 bpmFESTAも創’s barも行って、遠いながらも存在を目にして、歌う声も聴いていたのにね


 一方7ORDERさんは、最初から全く実在を疑っていなくて、ただただ階層や世界の違う方々だ、と仰ぎ見ている感がある。

 これは、ヒプステ現地初日、あべあらんさんの生の声に演技にダンスに心臓を力いっぱい殴られたのが、そもそもの出会いだったからかもしれない。


 あの日あのとき、わたしはヒプステを観終わってからしばらく呆然として、気づいたらまたヒプステのチケットを取っていて、また行ってまた呆然とした。

 ヒプステの感想は言いたいことが山ほどあるので割愛するけれど、とりあえず、ひとときも目が離せなかった。ここに左馬刻様がいる。左馬刻様以外の記憶は、酔っ払いのようにとぎれとぎれになった(ので配信で見直した)。

 両目をセルフ左馬刻様カメラにして、彼をずっと見ていたら、最後の最後、挨拶が終わるときに、かすかに笑ったのが分かった。あ、これは左馬刻様じゃない、きっと中のひとの笑顔だ、ととっさに感じた。

 その笑顔がほんとうにきらきらしていて、優しげで格好良くて、言葉をどんなに尽くしても足りない気しかしなくて、そこでそれまでの記憶もほぼ全て飛んだ。

 ヒプノシスマイクが好きで行って、あべあらんさんという方を大好きになって帰ってきた。


 自分の心臓が、動き出した気がした。


 ここで終わってはいけないという強い衝動に駆られて、もっとあらんさんのパフォーマンスを観たい、他の舞台には出られているのか?と焦れて、ファンクラブはある?とおぼつかない手でつぶやいたとき、とても有難いことに、優しい方が7ORDERさんの存在と公式動画を教えて下さった。

 それが全ての始まりだった。


 YouTubeの惑星ループ踊ってみた、を最初に観たのを覚えている。まだメンバーの皆さんの見分けはつかなかったけれど、あべあらんさんの笑い顔が左馬刻様のときからは思いもよらないほどに可愛いことと、サビのとぅっとぅるるっのとき、人差し指だけ立てて振る際の手首から先のしなりがあまりに自然で、何てしなやかに踊るんだろうか、という感慨でいっぱいになった。


 その後、他のダンス動画を観て、バラエティ風の動画も観て、他のメンバー、だったひとたちが、ながつまさん、になり、やすいさん、になり、メンバーカラーもお顔も名前もいつのまにか一致するようになった。

 各動画についても言いたいことが沢山あり、何なら、この秒数のこのお顔が天才!だの、このかけ合いが最高!だの端から挙げていきたいのだけれど、全くきりがないのでこれも割愛する。何せ、あらんさんたちのことは、ほんとうに永遠に話せてしまう。


 ムラビートと「友達だよ」はエンドレスリピートだし、Make it trueのやすいさんドッキリでは、ラストの通しで”Yeah, I can make it true for you”かみてに走ってからの激しい振りがものすごく好きで、そこばかり繰り返し何十回も観ている。

 大運動会で罰ゲームの液体を黙って自分だけペットボトルで飲むなんていう、信じられないほどの優しさと漢気には愛すること以外できなかったし、サウナ部の腰の細さには見てはいけないものを見てしまった気しかしなくて、わたしは動物園のくまのように狭い部屋の中で立ったり座ったりしてめちゃくちゃ深い溜め息を吐いた。


 あ、全然割愛できていないな


 ちなみに、歌っているときのお声はまだ、もりたさんとながつまさんとやすいさんしか聴き分けられていない。遺憾である。

 あらんさんについては、このフレーズのこのお声いいな!と思うとあらんさんなので、聴き分けられているような、いないような心持ちでいる。

 しかしその過程でYouTube動画を何周もしていると、1回目に観たときに認識できていなかったものができるようになり、上がった解像度でさらに楽しめることが分かった。復習は大事なんだと、受験勉強から離れて幾光年経ったいまになって、初めて実感した。


 ここまで、彼らを知ってから1週間の話である。

 1週間って何日だっけ?と宇宙猫になることしきり。

 なお、いま手元にはUNORDERGIRLS CONTINUEに写真集があり、スマホの中には、どういう順番で振られたのか分からないFC会員番号があって、ロック画面には舌を出したあらんさんがいる。お顔がよい。とんでもなくよい。


 あべあらんさんは、見たこともないほど美しく、およそ周りにはいない運動神経で、映っている姿は何の気なしだろう無造作な一動作まで洗練されていて、纏うものは端から端まで洒落て、少なくともわたしは滅多に身につけないハイブランドに包まれている。概念じゃなく、実在するステータスMAXのひと、なんだと思って眩しく見上げている。

 近づく機会もないけれど、近づいたらきっと灼かれる。比喩ではなく、そう思っている。


 FC動画の、イルミネーションどこが好きとかある?との問いかけに、あらんさんが即座に「ありますよそりゃ、言わないですけど」と返したとき、明確に引かれている線に一瞬肩が強ばってから、いやそれはそうだ、だってこの方たちは実在しているんだもの、ちゃんとご自分を守れるひとでほんとうに良かったとひどく安心した。

 絶対に何も届かないことに、安心した。

 きっと声も届かない、と思うと、やっぱりどうしようもなくほっとした。

 それがいいことかどうかは分からない。応援の声、好きだよという言葉は届いてほしいようにも思う。でもやっぱり、届くのは怖い気もする。


 だけれど、それを措いても、きっとあらんさんは、届いたものに揺らがないひとだとも思っている。

 とても強い芯が、自分、があって、それを守り通せるひとなんだと思う。佇まいからも、表情からも、座右の銘からだって分かる。

 それは、7ORDERのどのメンバーさんにも感じることであって、特にあらんさんとやすいさんに感じるものでもある。

 そういう彼らの姿を見るたび、いっそう安心して、ああためらいなく推せる、推す、と心から誓った。


 これを書いていて初めて気づいたけれど、わたしは浅沼さんやbpmの皆さんに、声やその他の何かが届きうることを、おそらく怖いと感じていた。

 届くというのは勘違いかもしれない。

 遠いとおいひとたちであることは間違いなくて、道が交わることはほぼあり得なくて、個として認識されることはきっとなく、そことこことの間にはきちんと線が引かれている。

 それでも、やっぱり怖かった。

 期せずして生活圏で見かけたら、こちらの意図しないつぶやきが目に入ったら、どうしよう。


 特につぶやきについては、わたしがいまも気にしていることがひとつある。

 映画部のYouTube動画での発言を、浅沼さんがラジオで謝ったこと。

 あのときを思い出すと、心臓の下の方が冷たくなる。動画の発言がいやだった、というわたしのつぶやきを見たわけじゃない、たまたまだ、と思いながらも、万が一あれを見たのだったら、と頭を抱えるのは止められなかった。


 そのことに限らず、何かしらの重なりや関わりがあることが嬉しいようで、恐ろしいようで、いつもよく分からない気持ちになった。

 最終的には、浅沼さんやbpmさんは、自制しながらほどよく推す、という、至極当たり前の結論にたどりついた。


 一方、7ORDERさんである。

 プライベートな情報が全く分からない。これはわたしが新規も新規だからなのかもしれないが、行かれる場所や使われるお店が全く分からない。分かるのは、イルキャンティのドレッシングをお好きだということくらいである。

 世界が違いすぎて、何も特定できない。

 

 もう、何だかこの時点でほっとした。

 動画を観れば携帯電話の画面にはモザイク処理がされているし、トークの中でも先述のようにあらんさんたちの方から、ばつっと線を引いて下さる。

 何も考えないで推せる。正直そう思った。

 そう思ってから、ああこれがアイドル(と呼んでいいのか)を推すということか、と結構な衝撃を受けたし、いまも受け続けている。

 これがおたくの知らなかった情動であり、わたしがこんなにも長い思考の整理を始めた原点だった。


 なお、これは従前からの推したちは手が届くところにいるとか、情報管理がゆるいとか、そういう趣旨ではない。あのひとたちが、手の届くところにいるわけがない。いらしたらどんなによかったことか。いやよくない、心臓がもたないな。

 上げている写真も、リアルタイムでないだろうことはよく分かっている。リアルタイムであっても、もちろんそこには行かないけれど。

 分かった上で、推す側のわたしの気持ちの置きどころの問題である。の、が多いな。


 なお、7ORDERさんに対しても、従前からの推したち同様、何かをお揃いにできたらいいな、とか撮影に使われたお店に行ってみたい、という気持ちがないわけではない。

 いややっぱり、あまりないのかもしれない。まだちょっと自分でもよく分からない。

 ただ、7ORDERさんを推している、ということを示すものはほしいな、と思う。公式のパーカーだったり、Tシャツだったり、メンバーカラーの何かだったり。ネイルは先週末からペールパープルにした。


 でも、彼ら自身の持ち物と同じブランドのものや好きなものを手に取ってみたい、とはあまり考えていない。

 これもおそらく、実在している、という認識が先にあったからなのだろうと思う。

 非実在だからこそ、その存在を身近に感じられるよう何かを重ねて真似てみたいと思い、実在だからこそ、その存在を目の当たりにしただけで満たされる。多分、わたしの中の切り分けはそういう風になされた。


 とは言いながら、何ヶ月かのち、あらんさんの香水を特定して購入しようとしたりしていたら、これを読み返して自分で指さして笑ってやろうと思う。

 あらんさん、めちゃくちゃいい匂いしそうだな。あらんさんの香水、やっぱりほしいかもしれない。


 以上、思う、思う、ばかりで何も断定できていないのは、わたしがアイドル(と呼んでいいのか)を推すのが全くもって初めてだからである。

 いわゆる芸能人、にほとんど興味をもたずに生きてきてしまったので、文化も作法も分からなければ、何より自分の感情も心の預け方も分からない。

 好き、の海で溺れそうなところを、力を抜いて浮かねばと四苦八苦するばかりである。こんなにも誰かを好きになって大丈夫なのか。RADWIMPSが「いいんですよ」って言っていた気もするが、どなたかこの海の泳ぎ方を教えてほしい。


 とりあえず、そうこう行ったり来たりして、アイドル(以下省略)を推すこと、とアイドルと言っても過言ではない美しさだが足場がアイドルではないひとを推すこと、の差異について、わたしの中ではひとまず落ち着きを得た。

 まあ、差異については落ち着きを得たけれど、好きな気持ちは相変わらず落ち着かない。


 起きてはPCYouTubeUNORDERを観て息を呑み、GIRLS CONTINUEを眺めてはうめく。寝てはスマホYouTubeを観て、写真フォルダを見て、またYouTubeを観る。ここが好き、あそこも好き、と言いたい気持ちが暴れ出すのをこらえるので一日が終わる。こらえられないと、こういう文章を書き始める。

 推しがいる人生は、ほんとうに幸せだな、と心から思った。


 かくして(?)わたしは、自制しながら推すべき、日常の(遠いとおい)延長線上にいる非実在のようでいて実在の推しと、ためらいなくノータイムで推せる、違う階層にいる明らかに実在の推し、をもつにいたった。

 推す際の感情の委ね方も、アクセルの踏み方も、まるで違うふたりの推し。

 同じところは、わたしの人生を照らして、心を温かくして、沢山笑顔にさせてくれるところだな、と推しふたりのツーショット写真を見ながら、思っている。あらんさんのインスタから発掘した貴重な写真。非実在(実在)と実在の架橋。


 なお、わたしを推したちに出会わせてくれたのは左馬刻様なので、ヨコハマには足を向けて寝られない、と思ってさっきGoogleマップで調べたら、ちょうど枕の方角だったので良かった。二礼二拍手一礼をしておく。


 大人になっても、新しい感情や好きに出会えるんだと、毎日推したちに教えてもらっている。

 推したちは、自分がわたしという個の人生を照らして、心を温かくして、沢山笑顔にしているのだと、知ることはないだろう。

 こんなにも幸せをもらっているわたしを、知ることはないだろう。

 でも、それでいいと思っている。

 それが、推しを推すこと、なんだと思う。推しがアイドル(以下略)であっても、そうでなくても。


 知らなかった心を生み出し、わたしの心臓を動かしてくれた推したちが、幸せでありますように。

 そして、これを読んで下さったあなたとあなたの推しも、幸せでありますように。

 いまはただ、そう願ってやまない。